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三七人参(田七)の琉球、日本での初出

三七人参(田七)の琉球、日本での初出


結論から言いますと、
三七人参(田七)は、琉球王国(康煕58年:1719年)に、清よりの冊封使節団の随行員によって、一斤(約600g)持ち込まれました。広西三七という名称で。
これが、日本の領土に、三七人参(田七)が初めて入ってきた最も古い記録です。
琉球王府編纂の『歴代宝案』第15冊の別集上の『冠船之時唐人持来品貨物録』に記載があります。

斤(きん)について。
1斤の重さは、時代、場所によって違いがあります。
日本での1斤は600gです。
現代中国(民国17年、1928年に公布)では1斤は500gとなっています。
しかし、清代の1斤は、604.8gであって、香港、シンガポールも1斤が604.8gで使われ続けています。台湾では、1斤(1台斤)は、600gとなっています。
以上のことから、1719年に、持ち込まれた広西三七は、約600gというわずかな量です。

三七人参(田七)が、琉球王国に初めて輸入されたのは、日本本土よりも、数十年早くのことでした。しかし、かなりの確率で、日本本土に転送されたでしょう。
というのは、清の時代の歴史を記述した『清史稿』には、「所販各貨、運日本者十常八九」とあります。
要するに、琉球に、中国から入った商品の80~90%が日本に運ばれたということです。
薩摩が琉球を植民地化していたので、貿易の利は、薩摩に搾取され続けました。
明治の廃藩置県によって、やっと搾取はおわりました。

琉球王国は、長いこと仲介貿易に活路を見いだしていました。
中国は、多くの国に対して朝貢という形での貿易しか認めませんでした。
琉球は、中国には朝貢という形で、貿易をしていました。

三七人参が、いつ日本に入ってきたのだろうか?
ということを、田七について調べ始めたときから、疑問に思っていました。
おそらく、江戸時代に琉球王国に入り、それから日本本土に転送、転売されたのだろうと推定しました。

三七人参(田七)は、古くから生薬として利用されてはいましたが、広く中国本土で知られるようになったのは、明末の李時珍の著作「本草綱目」からです。
それ位の時期から、中国本土で流通するようになりました。日本の江戸時代に当たります。

中国と琉球の間で、多くの商品が出たり入ったりしました。
そのなかに、三七人参(田七)もあったのではないか、手がかりはないだろうかと調べてみました。



『明清中琉航海贸易研究』謝必震先生著、 海洋出版社という本を調べたところ、手がかりが見つかりました。
その史料の多くは、琉球王府の編纂した『歴代宝案』に依拠しています。

それによると、明と清の時代に、合計23回 冊封使が、中国より琉球に派遣されました。
琉球からは、明の時代には、時期によって2年に1回、5年に1回、十年に1回くらいの頻度で朝貢使節が派遣されていました。
清の時代は、おおむね2年に1回、朝貢使節が派遣されました。

ただし、赤嶺誠紀先生の『大航海時代の琉球』の記載によれば、明の時代には537回、清の時代には347回、合計884回、琉球より、朝貢使節が中国に行っているとのことです。
この間に、実に膨大な物資のやり取りが行われてきたことになります。

冊封使
冊封使(さくほうし)というのは、中国の皇帝が、朝貢国の王様を、その国の王として認めて任命するための使節のことです。
中国というのは、世界の中心にある中華国家という意味です。
中華思想から見ると、全世界は中華国家の皇帝のものであると考えています。
従って、全世界が中国の支配下にあることになるのですが、現実はそうでないので、中国本土を除く其の他の地区は、地元の野蛮人の王に統治を任せることにするわけです。
そこで、全世界の支配者である中国皇帝が、地元の誰かを王様に任命してやる、ということになります。
しかし、現実には、中国周辺の弱小国家しか、そのフィクションに従ってくれないので、中国の外交は、必ずゆがむとになります。




朝貢について
また、中国皇帝の徳が偉大であれば、野蛮人の酋長(王様など)が、自発的に貢物を持ってくることなると考えているわけです。
明の建国者である朱元璋 、太祖洪武帝は、建国と同時に周囲の国に使者を遣わして、入貢を促しています。
中国皇帝である朱元璋が、偉いことを認めろ、ということです。
多くの国から朝貢使節が来れば来るほど、その皇帝の徳が高いということになります。
ですから、小国でも、朝貢使節がくるのが、中国皇帝や支配層にとっては嬉しいのです。
しかし、なにもしなければ、どこの国も、中国皇帝にひれ伏して、みつぎものを持っていく国はありません。
そこで、周辺の国家が、貢物を持ってくれば、その何倍もの物を与えることによって、朝貢を促すわけです。
また、朝貢国にとっては、旅費も大変かかりますので、旅費もお土産つきで、負担してくれるわけです。

琉球は、明の呼びかけに応じて、朝貢をしました。
というよりは、琉球は、元から、機会さえあれば朝貢したがっていました。儲かりますから。
琉球は、明の時代の初期には、2年に1回、二年一貢といいますが、朝貢使節団を中国に派遣しています。その後、5年に1回、十年に1回など、時代によって違いますが、派遣しています。
清の時代には、おおむね2年に1回でした。

使節団は、那覇港を出帆して、3日から10日で、中国の福建あたりの海岸にたどり着きます。後は全部、中国政府が、北京の朝廷に行って帰ってくる旅費などのすべてを、負担してくれます。それだけではなく、使節団の大使、副使など身分の上下に応じて、給料や衣服、食品などもくれます。
北京の朝廷に行くと、礼部の役人が、朝廷での皇帝に対する、挨拶の仕方まで、伝授してくれます。
琉球からの使節は、公的な荷物から、私的な荷物まで持ち込んできています。
公的な荷物というのは、琉球の王から、中国皇帝に対する荷物、つまり貢物のことです。
私的な荷物というのは、使節団の個人が持ち込んだ荷物のことです。身分の差によって持ち込める量は違いますが、みな何かを持ち込んできています。
琉球王の貢物に対しては、中国皇帝から莫大な答礼の品をくれます。下賜するという表現を使います。中国皇帝が臣下である琉球王に与えるという意味です。
私的な荷物は、使節団の個人が、個人の金儲けのために持ち込んでいるわけです。持ってきたものを売って、その代金で、金に成りそうな商品を買って帰り、それを帰国後売りさばけば、大もうけが出来ます。
(ただし、薩摩に殖民地にされた後では、個人の利益まで、薩摩に搾り取られたでしょう。)
これが、所謂 朝貢貿易です。公的なのと、私的なのとが混じっています。
この間に、医薬品をふくむ、多くの物品が琉球に輸入されました。


さて、冊封について
冊封というのは、朝貢国の王の代替わりの時に、新しい王を任命することを言います。
元の王様が亡くなれば、その王子が王位を継ぐことになりますが、勝手に後をついで王にはなれません。なぜなら、全世界は中国皇帝の所有物、領土ですから、中国皇帝が王として任命しなければ、王ではないということになります。
そこで、代替わりの時に、新しい王を任命、つまり冊封する使節が中国皇帝より派遣されます。
ただし、代替わりの時のすべてに、冊封使が派遣されたわけではありません。
これが、冊封使節です。
冊封使の乗る船のことを、封舟とも言いますが、琉球側からは冠船とも言います。
冊封時に行われた貿易のことを、冊封貿易とも、冠船貿易とも言います。


まず、琉球から福建へ迎えの船が行きます。冊封使の乗った船の道案内をしつつ、那覇港に向かいます。
琉球から大歓迎を受けて、冊封使は中国皇帝の代理として、新しい王を琉球王に任命します。
その時に、中国皇帝から新王に多くの品が下賜されます。
国王の王としての王冠や服など、王妃の王妃としての服なども下賜されます。
また、冊封船には、使節と随行員、兵士、船員など多くの人が乗り込んでいます。
それぞれが、琉球で売るための荷物を持ち込んでいます。
薬を含む多くの種類の品が、こうして琉球に入ってきました。
冊封使節団の総人数は、その時によって違います。少ないときで、2~300人、多いときは700人以上でした。
洪武年間には500人が冊封船に乗り、各個人が約100斤の行李を持ち込み、夷人(イジン:野蛮人、この場合は琉球人。中国人は、自分ら以外はすべて野蛮人だとして蔑視しています。今も、基本的には変わっていないでしょう。)と貿易した、とあります。
このことからしても、実に多くの品物が琉球にもたらされたことになります。

清代の康煕58年(1719年)の海宝、徐葆光らが冊封に来た時に携帯した荷物に関しては、携帯者、品目、数量が、琉球王府編纂の『歴代宝案』第15冊の別集上の『冠船之時唐人持来品貨物録』に記載されているとのことです。

その中に、探していた「三七人参(田七)」についての記載を見つけました。
長班の「王爵」という人が、「広西三七を一斤」持ち込んでいました。
長班というのは、正式な使節の一員の個人的な使用人、家来という意味です。
この王爵という人は、他の長班よりも多くの荷物を携帯していますので、比較的身分の高い人の家来のようです。
わずか1斤(約600g)ですが、これが、文献上のもっとも古い記載、初出ではないかと思います。
1719年に、「三七人参(田七)」が琉球に初めて入ってきました。
日本の領土、本土ではなく植民地の琉球ではありますが、に初めて入って来ました。

ちなみに、『冠船之時唐人持来品貨物録』には、計114人の貨物携帯物のべ1054件が記載されています。
しかし、正使や主な使節団の人たちの携行荷物の記載はありません。おそらく、身分の高い使節たちの携行荷物は、調査することは失礼なので出来なかったのでしょう。また、使節や船の防衛のために軍人が乗っており、船を運航するための船員水夫たちもいるはずですが、彼らの荷物についての記載もありません。
それですから、さらに多くの品目が、琉球国にもたらされたはずです。
上記の数字から、冊封使一行の総人数は、2~300人位でしょう。

「三七人参(田七)」についての、記載はたった1行ですが、そのほかの時にも、輸入された可能性はあります。

さて、この「三七人参(田七)」のその後の運命は、想像するほかはありません。
王爵さんは、琉球に行くに当たって、金に成りそうなものを、中国で買い集めたりしたのでしょう。その時に、どこかの薬屋で、「金不換」と言う位に貴重な薬だから、買って持っていくように勧められたのでしょう。高いので大金をはたいて、わずか1斤だけ買って、持って来たのでしょう。
ところが、残念なことに、当時の琉球では「三七人参(田七)」については、まず知られていなかったでしょう。
ですから、正当な評価を受けずに、朝鮮人参の偽物くらいに思われて、安く買い叩かれたでしょう。王爵さんは、持って帰るよりはましだと、泣く泣く安く売ったのでしょう。
琉球で買い取られた、「三七人参(田七)」は、薩摩の手によって日本本土に運ばれて、偽の朝鮮人参として売られたのでしょう。
これが、数十年後でしたら、広東人参として、日本本土で正当に評価されたかも知れません。



参考までに、清代に琉球が、中国より輸入した薬材と香料の全品目を以下に紹介します。
生薬もあれば製剤もあります。また、解りにくい生薬や印刷間違いと思われるのもありますが、煩雑なので、解説は省略させていただきます。

薬材与香料
  粗薬材、白帆、砂仁、雄黄、川貝母、川附子、芦薈、冰片、姜黄、紅花、豆蔲、樟脳、洋参、黄連、硼砂、黄丹、竜脳、肉豆蔲、小割肉桂、猪苓、甘草、甘松、桂皮、良姜、使君子、麻黄、大楓子、烏薬、大腹皮、山帰来、滑石、連翹、生地、羚羊角、蘇玉竹、阿膠、白鳳丸、抱竜丸、鹿茸、琥珀、万金丹、燕窩 、麝香、神曲、大黄、三仙丹、丹朱、黄芪、川芎、川厚朴、高麗(参)、腹甲、砂薬丹、高麗須、陳李済蝋丸、藿香正気丸、烏須人参、薄荷油、万霊丹、拾痛丸、吉林真老人参、干金丹、青果散、野山人参、梅花点舌丹、回春丹、金圭(哪だ)、蒼朮、桂附理気丸、羊角黒元参、川朴硝、土茯苓、桔梗、定中正気丸、制川附子片、穿山甲、蘇州祠内陳三、范志神曲、白製膏薬、蘇州内陳、雄黄精、川黄連、貝母、丁香油、牛黄、熊胆、蟾酥、(鹿)角膠、次茸、山羊血、川蓮、云南薬珀砕、薬犀角、白附、石棗、半夏、五加皮、白粉、当帰、百部、玄参、庄黄、地黄、蓁艽、
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藤黄、蘇党参、女貞子、桃仁、枇杷葉、桔核、糸瓜絡、欠実、木賊、荷帯、蛤蚧(かい)、酸棗仁、葛根、没薬、白僵蚕、木香、安息香、束香、奇楠香、官香、沈香、蘭花香、檀香、速香、丁香、粗香、銭香、広香、上檀香、香料、浸油香料、茄南香、宜香、束銭香、長寿香、金束香、好束香、上好安息香、帳香、楠木、白檀、胡椒


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