「人参弁」に於ける、三七人参
「人参弁」に於ける、三七人参
享保18年(1733年)に刊行された「人参弁」には、朝鮮人参を主とした記述の中に、三七(人参)についての記述が有ります。
これは、現在の知識からすれば、間違っている部分がありますが、今時代に、すでに三七人参が日本に流入していたことの証左のひとつですので紹介します。
なお、西洋ニンジンが、「発見」されたのは、1716年のことです。「人参弁」の書かれた時(刊行年ではなく)に、日本に入って来ていないか、入って来ていても、まだ稀であったでしょう。
本草綱目の三七の条に、
時珍曰く、広西南丹の諸州の少数民族の村の深山中で根を採集し、日に曝して乾燥する。黄黒色。丸く固まっているものは、ほぼ白及に似ている。長いものは、古い乾地黄の様で、味はわずかに甘く、苦い。すこぶる人参の味に似ている。
この説によれば、或いは、薩摩人参(トチバニンジン)の節は、三七と言うものであろうかとの疑問であるが、まことに良く符合している。
(編者注:薩摩人参と三七人参は、全く別の植物です。)
しかし、本草原始の三七の条には、竹節人参(ちくせつにんじん)もまた三七に似ている。ただし、形は、小さいだけである。
形の大小をもって、論ずる事は、間違っている。
また、稲生氏の本草図翼に云う。
三七は竹節人参の類で、味は甘く、苦く、人参の味に似ている。ただし、色は、黄白で、三七の色は黄黒である。市場では、定風草(天麻)をこれに充てている。ただし、色は白く、質量は軽く、味は薄いので、三七とは異なる。この説は、どこから出て来たのだろうか?
(編者注:三七人参は、竹節人参とは、別のもの。ただし、味が甘く苦いという記述は、三七人参と合致する。他の人参類は、別の味である。)
私は、未だ竹節人参と三七の関係に対する、十分な考察を行っていない。
漢渡りの三七を見るに、我が国の竹節人参に似ていて、色は、黄黒色である。この種は、我が国にもある。
李時珍が謂う、「近頃、伝わる一種の草が・・・」は、我が国の俗が、三七(この場合は菊科の植物)と云って、人家にはなはだ多い。(注:この文は明らかに誤りである。)
これを以て、薩摩人参(トチバニンジン)は、三七人参とは異なることは、確かである。
近頃、朝鮮より、対馬に、人参の葉であるとして持ち込まれた一種の草が、京都に寄せられた。それを見ると、我が国の、三椏(あ)五葉であって、かえって我が国のものより、味が劣っていた。この草と、かの国の竹節人参(ちくせつにんじん)についている苗(地上部の茎葉)とを比べて見て、薩摩人参が、本物の人参である事が知れた。(編者注:薩摩人参は、トチバニンジン=竹節人参であるので、朝鮮人参とは同じではない。)
しかし、土地の差異によりものか、味の苦さがひどく、薬用には耐えられない。
熟考するに、辛夷(しんい:コブシ)の品質の差もこのようである。
かの木天蓼(もくてんりょう)、木香(もっっこう)などの如きものは、実を薬用にする。
しかし、気味の異なるものは、仮に栽培方を知り得たとしても、土地の善し悪しによっては、良い品質のものを得ることができない。これは、天のしからしむところであって、人為の及ぶところでは無い。