カテゴリ:谷中村、足尾鉱毒事件( 1 )

105年ぶりの谷中村

105年ぶりの谷中村


2010年12月 栃木県南部にある谷中湖に行ってきました。
谷中村は、足尾鉱毒事件によって、廃村にされました。
谷中湖は、谷中村の跡地にあります。谷中村は水没させられたのですね。
谷中湖は、茨城県の古河市、埼玉県、群馬県に接していて、4県の交差する所です。
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谷中湖には、長いこと行ってみたいとは思ってはいました。
なかなか機会が無いまま、時が過ぎてしまいました。
足利市で店をやっている知人を訪ねるのを機会に、谷中湖を見てきました。

地図を見ると、県南に大きな湖のようなものが見えます。
これを見て、何だろう、自然の湖には、見えないし、東京周辺にある湖は、皆観光地になっているに、奇妙だなとは思っていました。
少し前の地図には、表示されていませんでしたし。









私は、足尾鉱毒事件の被害者の子孫です。
長いこと、そういうことは意識していませんでしたが。
私の母方の祖母や曽祖父母は、谷中村に住んでいました。
しかし、足尾鉱毒事件で、先祖伝来の土地を失い、谷中村を出なければなりませんでした。
わずかな補償金を元に、東京に出てきて上野で店を開きました。
繁盛しましたが、関東大震災(大正12年)で、すべて灰燼に帰してしまいました。

私の母は、その大震災の後の、大正14年の生まれです。

その母は、少し前に死にました。
生きているうちに、谷中村を見せたいと思っていましたが、残念ながらかないませんでした。

母の死後、谷中村の事が非常に気になるように成りました。

そういうこともあって、谷中村(谷中湖)を見てみたいという気持ちが、強くなりました。
去年か一昨年、日経新聞に「田中正造記念館」のことが載っていました。
そこに行けば、何か分かるかも知れないと、たずねて見ました。
そこで、分かったことが一つだけありました。
補償金の元になる資産台帳に、私の曽祖父の鈴木伊助の名がありました。

さて、
曽祖父 鈴木伊助の戸籍を見ると、明治18年12月に、谷中村下宮から古河市古河に本籍を移しています。
古河市古河は、曾祖母(曾祖母の旧姓は、臺といい、先祖は古河の士族です。)の出身地ですから、谷中村を出て、一度古河に居を移したのでしょう。
また、先祖の墓も、古河に移したようです。
母は、「鈴木家の墓は、不思議なことに、古河のお寺にあって、臺(台)家の墓と並んでいた(または、向かい合っていた)のよね。」といっていました。
今は、どこかは、分からないといていました。
おそらく、母は子供の時に墓参りをしただけなので、そこがどこであったのかが分からなかったのでしょう。
昔、そう聞いた時には、私も不思議だと思いました。
しかし、今考えてみると、こういうことだと思います。曽祖父らは、谷中村が水没するのに当たって、先祖の墓を移す事にしたのでしょう。そして、移した場所が、妻(曾祖母)の先祖の墓のあるお寺であったのでしょう。
また、鈴木家は代々、古河とは、通婚関係があったので、先祖の墓を古河に移すのは、自然な事だったのでしょう。
古河には、おそらく親戚もいたでしょうから。

古河に本籍を移したのは、明治18年です。
曽祖父らは、その頃か、その前に谷中村を出ているのでしょう。
明治18年は、1905年ですから、今回、私が谷中に行ったのは、実に105年ぶりの帰郷ということになります。
105年ぶりの帰郷!
実に、長い時間がたっています。故郷には何にも無く、家屋敷土地は、湖のどこかになってしまっています。
正に、「桑田変じて海となる」の感があります。海ではなく、湖ですが。

行くに当たって、どう行こうかと、地図を見ました。すると、東武日光線の「柳生」が一番 谷中湖に近そうなので、そこから湖に行くことにしました。
駅から湖への道を調べようとして、あっと驚きました。
湖の入り口に下宮橋というのがありました。
下宮というのは、曽祖父の本籍地です。
すると、先祖の地は、下宮橋のあたりか、そこからそう遠くない場所だったのでしょう。
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下宮橋





















谷中湖の印象はというと、こうでした。
広い!
しかし、何か不自然。
美しくない。
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しばらく見て回って、何なのだろう、この不自然さは、と強く感じました。
違和感の理由を考えました。

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湖岸がコンクリートなので、違和感がある。
岸に木が少ない。草はあるが。
鉱毒の影響がまだ残っていて、普通の木が育たないのだろうか?
それとも、わざとお金をかけて、整備、つまり自然に木が生えてきたら、除去してしまうのだろうか?
首都圏であれば、人造湖であっても観光施設があるが、この湖の周辺にはレストランもホテルも無い。
この湖の出来た由来を知れば、反公害的な感情をあおることになるので、なるべく人が来ないようにしたいのではないのか?
だから、観光施設が何も無い。
美しくないと感じるのは、自分が鉱毒事件の被害者だからだろうか?
広いと感じたのは、こんなに鉱毒事件がひどかったのかという、気持ちがあるからなのか?
1鉱山のために、これだけの土地を無人にして、水没させた。
美しくないのは、やはり木が無いためと、人造の美しい建物が無いためなのか?

このような考えが、頭をめぐりました。



谷中村と足尾鉱毒事件の概要はこうです。

明治10年代から、上流の足尾銅山からの鉱毒の流出により、渡良瀬川沿岸地域では作物が実らず、魚もとれない鉱毒被害が激化・拡大していきました。特にひどかったのが谷中村でした。
今も、足尾銅山の周囲には木が生えていません。
(木を植える運動があって山に植樹をしているようですが。
私個人としては、そのままにしておいたほうがよいと思います。)
被害民たちは、政府への請願運動に立ち上がり、
また、栃木県選出衆議院議員の田中正造先生も、立ち上がり、鉱業停止を訴えました。
曽祖父らは、どうしたかはわかりません。
ただ こういうことを母から聞いています。
『田中正造翁は、支持者の家に泊まりながら運動をしていた。曽祖父の家にも再三泊まったことがある。その時、祖母はまだ幼児で、正造翁に背負われたことがある。
祖母は、正造翁のことを「じい」と呼んでいた。』との事です。
鉱毒事件の被害は、群馬、栃木など広範囲にわたっていましたが、特に谷中村の被害と、谷中村での反公害運動が盛んでした。 
そこで、明治政府は、谷中村を廃村にして遊水池化することで、鉱毒事件の鎮静化を謀り、村民たちは父祖伝来の地を追われました。
村民にはわずかな補償金を与えただけだった。
私の曽祖父らも、祖先の地から追い出されました。
16戸が村に踏みとどまり抵抗しましたが、明治40年(1907年)の強制破壊で、谷中村は滅亡しました。人がいなくなれば、村は存立できません。
荒幡寒村の「谷中村滅亡史」には、最後まで踏みとどまったもの以外を裏切り者としていますが、それは間違いです。
明治政府の弾圧は厳しく、村に踏みとどまっても、生活が成り立たちません。村を離れたものの多くは、自分自身と家族の生活のために村を離れたのであって、やむなく村を離れたのです。財産を失い、先祖伝来の土地を離れるのは、非常に残念なことです。
皆、断腸のおもいで村を離れた(追い出された)のであって、自らの意思で離村したのではありません。
それはさておき、谷中村は地図から消えて、隣の藤岡町に編入されました。

残念な事に、今も、世界の各地で同じことが起き続けています。

ところで、谷中湖(渡良瀬貯水池)の工事が完成したのは、なんと平成1年(1989年)です。村民を追い出してから80年以上も立っています。

国土交通省関東地方整備局のホームページを見ると、渡良瀬遊水地と足尾鉱山の鉱毒についての関係には、全く触れていません。
谷中村廃村の経緯には、全く触れていません。
百年たっても、公害を認めないのか。
また、やっぱりそうなのか、という感もあります。

谷中湖の入り口に、国土交通省関東地方整備局による谷中湖の説明があります。
それには、やはり鉱毒事件については、一言も触れていません。
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さまざまな思い、感慨が湧き上がりました。
今回の谷中湖行きは、私にとって、一つの気持ちの区切りとなりました。
一つの大きな課題を果たしたような感じがします。終わりではなく、始めですが。
今回は、谷中村のほんの一部を見ただけなので、いずれまた行きたいと思います。

鉱毒事件はまだ終わっていないのですから。

                   谷中村をしのんで  薬剤師    鈴木 覚

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