カテゴリ:三七人参(田七)( 8 )

「人参弁」に於ける、三七人参

「人参弁」に於ける、三七人参


享保18年(1733年)に刊行された「人参弁」には、朝鮮人参を主とした記述の中に、三七(人参)についての記述が有ります。
これは、現在の知識からすれば、間違っている部分がありますが、今時代に、すでに三七人参が日本に流入していたことの証左のひとつですので紹介します。
なお、西洋ニンジンが、「発見」されたのは、1716年のことです。「人参弁」の書かれた時(刊行年ではなく)に、日本に入って来ていないか、入って来ていても、まだ稀であったでしょう。




本草綱目の三七の条に、
時珍曰く、広西南丹の諸州の少数民族の村の深山中で根を採集し、日に曝して乾燥する。黄黒色。丸く固まっているものは、ほぼ白及に似ている。長いものは、古い乾地黄の様で、味はわずかに甘く、苦い。すこぶる人参の味に似ている。
この説によれば、或いは、薩摩人参(トチバニンジン)の節は、三七と言うものであろうかとの疑問であるが、まことに良く符合している。
(編者注:薩摩人参と三七人参は、全く別の植物です。)
しかし、本草原始の三七の条には、竹節人参(ちくせつにんじん)もまた三七に似ている。ただし、形は、小さいだけである。
形の大小をもって、論ずる事は、間違っている。
また、稲生氏の本草図翼に云う。
三七は竹節人参の類で、味は甘く、苦く、人参の味に似ている。ただし、色は、黄白で、三七の色は黄黒である。市場では、定風草(天麻)をこれに充てている。ただし、色は白く、質量は軽く、味は薄いので、三七とは異なる。この説は、どこから出て来たのだろうか?
(編者注:三七人参は、竹節人参とは、別のもの。ただし、味が甘く苦いという記述は、三七人参と合致する。他の人参類は、別の味である。)

私は、未だ竹節人参と三七の関係に対する、十分な考察を行っていない。
漢渡りの三七を見るに、我が国の竹節人参に似ていて、色は、黄黒色である。この種は、我が国にもある。
李時珍が謂う、「近頃、伝わる一種の草が・・・」は、我が国の俗が、三七(この場合は菊科の植物)と云って、人家にはなはだ多い。(注:この文は明らかに誤りである。)
これを以て、薩摩人参(トチバニンジン)は、三七人参とは異なることは、確かである。

近頃、朝鮮より、対馬に、人参の葉であるとして持ち込まれた一種の草が、京都に寄せられた。それを見ると、我が国の、三椏(あ)五葉であって、かえって我が国のものより、味が劣っていた。この草と、かの国の竹節人参(ちくせつにんじん)についている苗(地上部の茎葉)とを比べて見て、薩摩人参が、本物の人参である事が知れた。(編者注:薩摩人参は、トチバニンジン=竹節人参であるので、朝鮮人参とは同じではない。)
しかし、土地の差異によりものか、味の苦さがひどく、薬用には耐えられない。
熟考するに、辛夷(しんい:コブシ)の品質の差もこのようである。
かの木天蓼(もくてんりょう)、木香(もっっこう)などの如きものは、実を薬用にする。
しかし、気味の異なるものは、仮に栽培方を知り得たとしても、土地の善し悪しによっては、良い品質のものを得ることができない。これは、天のしからしむところであって、人為の及ぶところでは無い。


 

徳川家康と人参栽培

徳川家康と人参栽培                             2015.3.21

あまり知られてはいませんが、徳川家康は、大変な薬好きでした。
朝鮮人参の国産化を奨励したこともありました。
このことは、「草木六部耕種法(そうもくりくぶこうしゅほう) 四巻」(佐藤信淵先生著、1769ー1850)に見えます。

『人参は、朝鮮種を作るのがよい。
慶長の始め、朝鮮国と和した時に、朝鮮に命じて、人参の種子を献上させた。
慶長十二年(1607年)に、朝鮮人が入貢して、人参の種を献上した。
家康公は、伊達政宗、佐竹義宜の二人を召して、この種を賜った。汝等の領国は、朝鮮の真東に当たっている。
気候の寒暑は、朝鮮と大体同じであろう。
それで、これを汝等二人に与える。
良く栽培して、上品を作れば、日本全国のためになるであろう。
このことは、「関難間記」の付録に見られる。
家康公のこの挙は、徳があると言えるであろう。

その後の伊達家では、如何であったであろう。
今まで、仙台人参という言葉を聞いたことがない。
佐竹家でも、その種子を蒔いたのであろうか?
秋田の中で、人参を植えているものは、我が家より他にあることを聞いたことがない。』
(注:佐藤信淵先生の家では、高祖父の代から人参を栽培していました。)

以上、「草木六部耕種法」より。
上記のことから、徳川家康が、人参栽培を、経済上、健康上からの必要性を強く認識していたことが、わかります。

余談ですが、徳川家康は、その後の慶長16年(1611年)に、山漆草(菊科の三七、もしくは三七人参)を、献じられています。
『金森出雲守可重、初めて山漆草(さんしつそう)を献じた。その葉は、三七にして、本草綱目図説を考見するに、相同じであった・・・云々。』
(駿府政事禄)

三七人参(田七と呼ばれることが多い)は、朝鮮人参の仲間であって、形も、薬効も、成分も似ています。
キク科の三七は、人参とは、全く違う種です。
この山漆草が、三七人参であったら、徳川家康は、日本で最初に三七人参を見た、著名人であることになります。


それから、更に時代が下って、日本の各地で、朝鮮人参の栽培に成功しました。
それまで、輸入に頼っていましたが、そのうちに生産が増えて、逆に中国に輸出するようになりました。
天明年間(1761-1789年)に長崎を通じて、輸出が始まりました。

日本における、人参栽培成功の年は、明確ではありませんが、享保年間(1716-1736)の後半と思われます。
『享保一四年(1729年)、この年より、清国、朝鮮より、人参の生根及び種が来た事はない。
元文三年(1738年)に、日光において、人参の実が数多く出来たので、・・・云々』
と「人参史 四巻」にありますので、1730年かそれ以前に、人参栽培に成功したと推定されます

。時代劇等では、人参は輸入品なので高価である、との表現がされています。
これは、半面正しく、半面間違っています。
人参は、江戸時代の始めから、1801年まで、輸入されましたが、天明年間(1781-1789)に輸出を初め,弘化年代(1845-1848)まで輸出をしていました。
多いときは、年五、六千斤(3,000~3,600kg)に達した年があるという。(「人参史 三巻」より)

徳川家康は、朝鮮人参の国産化を奨励しましたが、その時から、100年以上たって実現し、更には輸出まで出来るようになったことになります。

朝霞の漢方  昭和薬局   
薬剤師 鈴木 覚
埼玉県朝霞市1-2-6-106
TEL 048-473-7830  FAX 048-473-7332

華岡青洲も使っていた田七人参

華岡青洲も使っていた田七人参


華岡青洲先生は、世界最初の、麻酔による乳癌の手術をした医学者として知られています。
有吉佐和子先生の小説「華岡青洲の妻」およびそれを映画化したものでも知られています。

華岡青洲先生は、外科が専門で、先生の口述したものが、多く残っています。
多くは、秘伝書としての筆記本です。

「金創神書(きんそうしんしょ)」には、田七(三七)人参を含む処方が、二つ記載されています。

最初に、医師としての心得、治療の備えについて、述べています。
その末尾に、「先ず患者を部屋にいれ、良く気を鎮め、人参調栄湯を煎じて、併せて回生散などを備えておくべきである。」と延べています。
この「回生散」に、「広参(こうじん・こうしん)」という名称で、田七(三七)人参が配合されています。
金創(きんそう)とは、金属による傷のことです。刀創、包丁等による傷のことです。
田七は、傷の要薬とされています。
傷の特効薬とされている、雲南白薬の主成分は、田七人参です
もう一つは、「縛血散(はくけつさん)」という処方です。
処方中の「銭(せん)」は、重さの単位です。時代、場所によって変わりますが、現在では1銭が3.75gとなっています。五円玉が、3.75gです。

“回生散  
     一切の暈倒(うんどう)、 及び産前産後、金創の出血、血暈(けつうん)を治す。
処方;香附子、紫檀、広参 各20銭、鬱金、甘草 各6銭、胡椒 8銭、白檀 12銭、丁香 5銭
製法:以上を細かい粉にして、白湯あるいは冷水で服用する。あるいは、蜜で練って固めて服用する。

縛血散(はくけつさん)  花岡(華岡に通じる)先生の秘法である。
      金創で出血して死にそうな患者、または衄血(じくけつ:鼻血のこと)、吐血にもよい。
処方:反鼻(はんぴ:乾燥させたマムシ)の黒焼き、 広参(こうじん・こうしん)(無ければ牛皮消でも可) 各2銭、紫檀、血竭(けっけつ) 各1銭、モグラの黒焼き3銭
製法:以上を粉として、患部に貼る。または、独参湯(どくじんとう)を5分または1銭服用させる。”

回生散とは、名前の通り、命を呼び戻すという意味です。
縛血散(はくけつさん) は、血を止める散剤(粉薬)という意味です。
牛皮消は、イケマというガガイモ科の多年草です。
黒焼きは、生薬を炭化させたものですが、炭には止血作用があります。

広参(こうじん・こうしん)とは、広州または広東の人参という意味です。
広東が、出荷港であったことから、広東人参としたのでしょう。
広西省に広の字がありますが、広西の広ではないでしょう。
広西は、有名な地名ではありませんから。
田七人参は、今でこそ雲南が産地とされていますが、昔は、広西省の方が多く産したと推定します。
というのは、田七の田は、広西省の田州府が、三七人参の集散地であったことから、田七の名前が付きました。

西洋人参のことを広東人参と称する事もありますが、この場合、薬効からみて、西洋人参では有り得ません。
西洋人参は、補剤的なものです。止血作用や傷を治す作用はありません。
また、江戸時代には、日本では、三七人参(田七人参)のことを、広東人参と称していたことが、多くの医学書に散見されます。
田七の効能には、必ず 止血作用や、衄血(じくけつ:鼻血のこと)、吐血を治す、という言葉が出てきます。
従って、青洲先生のいう広参(こうじん)=広東人参(かんとんにんじん)は、三七人参のことです。


縛血散(はくけつさん)の広参(こうじん・こうしん)が無いときは、牛皮消(イケマ)でもよい、とあります。これは、田七人参が手に入りにくい、高価であるという理由でしょう。

回生散の広参(こうじん・こうしん)=田七人参を他のに変えて良いとしていないのは、効き目からして変えがたいということでしょう。

以上のことから、青洲先生が田七(三七)人参を使ったことは、明らかです。

当店、昭和薬局でも、三七人参、田七人参をあつかっていますが、江戸時代の、しかも華岡青洲先生が使っていたのを発見できたのは、大いな喜び、かつ驚きでした。
 
朝霞市、志木市、新座市、和光市で38年
   昭和薬局   薬剤師 鈴木 覚
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三七人参(田七)の日本で初出   その4

三七人参(田七)の日本で初出   その4

広東人参、三七人参、西洋人参 (2)

西洋人参の中国流入

南陽先生の言う、「広東人参」が「西洋人参」である可能性は、ゼロではありません。
そこで、「西洋人参」について、述べてみます。

「西洋人参(西洋参)」という名がついてはいますが、産地からすると「北アメリカ人参」といった方が正確でしょうね。

日本では、「西洋人参」については、こう伝わっていました。
“アメリカの新たに獲得した領土である、カリフォルニア州で1848年に金が発見され、ゴールドラッシュが起こった。その時に中国より多くの移民労働者が渡り、朝鮮人参に似たもの、西洋人参を見つけた。これがきっかけとなり、西洋人参が中国に入ってきた。”
私は、西洋人参に対しては、調べたことがなかったので、そんなものであろうと思っていました。
しかし、それは誤りであることが、判りました。


馬暁北先生編著の「西洋人参」によれば、もっと前から、中国に入って来ていました。

先にも、述べましたが、
康熙帝が、長白山への一般人の立ち入りを禁じたことにより、朝鮮人参の供給が不足しました。

1718年、フランスの毛皮商が、試しに西洋人参を中国に輸出しました。
ワシントン(初代、合衆国大統領)の日記には、人参を堀っている人に遭遇したことが書かれているそうです。
1776年7月4日、アメリカ合衆国の独立宣言がなされました。
1788年、フィラデルフィアの文献には、Daniel Boon(ダニエル・ブーン)という著名な探検家が、15トンもの西洋人参を売ったとの記載があるそうです。
ただし、北アメリカから直接、中国に送られたのではなく、ヨーロッパ経由です。西洋人参は、イギリスやフランスを通じて、中国に輸出されました。
それで、中国では西洋人参の原産地をフランスであると、誤解したようです。
西洋人参についての最も古い記載は、「本草綱目拾遺」(1765年)と「本草従新」(1757年)です。それには、西洋人参はフランスの原産であるとしています。
「本草従新」には、“西洋人参は、形は遼東の人参に似ているが、煎じても香りが良くない。その気は、甚だ薄い。市中の偽人参はみなこの種である。見分けるのが難しい。”とあります。
(この文章からも、「広東人参」は、西洋人参ではない可能性が高いでしょう。)
この時代には、「西洋人参」は「西洋参」という名が一般的なようです。
1784年2月、西洋人参を242箱、約30トンを積んだ「中国女皇」号という船が、ニューヨークから出帆し、8月30日に中国の広州(広東)に到着した。
これが、アメリカと中国との直接貿易の始まりでした。
その後、毎年約70トンの「西洋人参(西洋参)」が、アメリカのニューイングランドより、中国に送られました。
更にその後、アメリカの「旧金山」(サンフランシスコ市)が西洋人参の集散地となり、おもに広州(広東)に送られました。
西洋人参の別名の一つが、広東人参であるのは、このことによるのでしょう。

以上のことから、1700年代の後半には、西洋人参は中国に相当量入ってきています。
それが、日本に更に転売された可能性は、当然あります。
しかし、この時代の文献の「本草綱目拾遺」、「本草従新」には、「西洋人参(西洋参)」の別名が「広東人参」であるとは、書かれていません。

原南陽先生の「叢桂偶記(そうけいぐうき)」には、
“少し前に、長崎の人が、「朝鮮人参、広東人参、韓種人参、竹節人参」の4種を、オランダの外科医の「ヘルマニス・レツテキ」に見せて質問した。
すると、「広東人参」以外は知らないとのことであった。「広東人参」のことを、「アメリカソム」と答えた。”
この文章を、そのまま受け止めれば、「広東人参」は「西洋人参:アメリカソム」であることになります。しかし、オランダ人は、もともと朝鮮人参などは見たことがなく、「アメリカソム」しか知らなかった、と文章からは読み取れます。その「アメリカソム」ですら、西洋人は薬として使いませんので、よく知ってはいなかったでしょう。そこで、その「アメリカソム」に似た感じの「広東人参」を「アメリカソム」と答えた可能性があります。
また“寛政丙辰年(1796年)、オランダ人が、「広東人参」を「アメリカソム」という名称で若干斤、持ち込んだ。
これで、この物産(広東人参)が、アメリカ産であることがわかった。”
この文からは、「広東人参」が、「アメリカソム:西洋人参」であることが読み取れます。
人参の「参」の日本語の音は、ジンまたはサンですが、広東語ではサム、ツァム、北京語ではシェン、ツァンです、
「アメリカソム」のソムは、広東語のサムに近く、ソムと表現してもおかしくはありません。

同じ「叢桂偶記(そうけいぐうき)」の文でも、こちらの方は、「広東人参」が「西洋人参(西洋参)」である可能性が高いことを示しています。
これは、オランダ人がそう言っているのであって、原南陽先生らが、眼で確かめてはいません。
「朝鮮人参」ですら、「東洋人参(東洋参)」の別名があるのですから、「三七人参」が、どのような別名があっても、不思議ではありません。
「東洋人参(東洋参)」の「東洋」は、日本を指しますので、「東洋人参(東洋参)」は「日本人参(日本参)」ということです。

結論
『叢桂偶記(そうけいぐうき)』に云う「広東人参」は、「三七人参(田七)」である可能性もあれば、「西洋人参(西洋参)」である可能性もあります。

しかしながら、実際に使用したことのある原南陽先生らの薬効に対する解釈、使用経験からして、ここで言う「広東人参」は「三七人参(田七)」であることは、ほぼ間違いないと思います。


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三七人参(田七)の日本で初出   その3

三七人参(田七)の日本で初出   その3


広東人参、三七人参、西洋人参 (1) 

以前、江戸時代に三七人参が広東人参の名称で日本に入っていたと書きましたが、
幾つかの疑問点があります。
原南陽先生の言う、広東人参は,本当に三七人参であろうか?
それとも、別なもの、つまり西洋人参ではなかろうか?と言う疑問が上がります。
西洋人参は、朝鮮人参、三七人参と同じウコギ科の薬用植物で、北アメリカの、アメリカ合衆国の北部とカナダが産地です。
現在でいう広東人参は、西洋人参の別名とされています。このことが、事態をややこしくしています。
生薬の名称は、しばしば混乱しています。
一つの生薬に対して、複数の名称があるのが普通です。おまけに、地方名、民族名まであって、種種雑多です。
また、同じ名称で、いくつかの種の生薬を指すことが、しばしばあります。
一物多名、多物一名ということが、かなりあります。
これが、特に、昔の生薬の同定を難しくしています。
三七人参も、その通りです。


私の意見を、結論から言いますと、
原南陽先生の言う「広東人参」は、「三七人参(田七)」である可能性が高いと思います。

以下に、考察してみましょう。

三七人参の日本流入
琉球に三七人参が入ったことが明らかなのは、1719年です。それが、日本に転送された確率は、90%くらいです。文献があるのはこれだけであっても、もっと以前から、琉球王国から日本に入っている可能性は、当然あるでしょう。又、中国人が長崎に持ち込んでいる可能性もあります。大体、利にさとい中国商人が持ち込まないはずがありません。ただ、記録がないだけでしょう。


西洋人参の産出国であるアメリカ合衆国の成立は、1776年です。しかも、当時の独立の十三州は、大西洋側にしか領土がありませんでした。
そのアメリカの独立以前に、日本に西洋人参が来たのであろうか?と言うことも、疑問です。
原南陽先生の、“近頃、「広東人参」というものが、”という表現から見ると、「広東人参」がある程度の量が日本に入ったのは、1700年代の後半でしょう。
そんな早い時代(1700年代後半)に、つまり合衆国独立前後に、西洋人参が日本に入ってきたのだろうか、ということも疑問です。

「西洋人参」馬暁北先生編著、天津科学出版社、2004年、によると、
清時代の康熙(こうき)帝が1690年位に、長白山(白頭山:ペクトサン)への、立ち入りを禁じた。それによって、人参の供給が不足した。そこで、朝鮮より高麗参、日本より東洋参が中国に輸入された。
おそらく、こういう状況の下で、三七人参の使用が広がったのではないかと思われます。
また、西洋人参が中国に輸入される原因の一つでもあったのでしょう。
「本草綱目拾遺}を以前 読んだ時に、不思議に思ったことがあります。本草綱目拾遺には、人参と高麗参(朝鮮産の人参)のほかに、東洋参(日本産の人参)が記載されています。
(「拾遺」には、「三七人参(田七)」は、「昭参」という名称で記載されています。雲南省の昭通府が集散地の一つだったことから、こういう別名もありました。)
はて、鎖国中の江戸時代の日本から、中国に日本産の人参がなぜ渡ったのだろうか?と、不思議に思いました。江戸時代には、やっと日本で人参が栽培できるようになったばかりで、そんなに生産量がなかったでしょう。或いは、相当量生産出来たのかも知れませんが。
康熙帝の命令で中国での産出が減った影響で、日本産の東洋参が中国に輸出された原因であったことが、西洋人参について調べて、理由がわかりました。

原南陽先生(1753-1820)の「解毒奇功方」(天保9年3月:1838年) には、各種の処方が記載されていますが、「広東人参」をふくむ処方が、一つだけ記載されています。
和田東郭先生(1744-1803) の考案になる処方として、「逐毒散」という処方が記載されています。
これは、三七人参の雲南での使い方とよく似ています。
「逐毒散」は、このような、変わった調整法をします。
香附子(コウブシ)1斤、広東人参1両を、内臓を除去した鶏の腹に詰め込んで、縄で縛ります。それを蒸して、鶏の肉汁が香附子にしみ込んだのを取り出して、日にあてて乾燥させ、粉にして服用する。(残りの鶏は、棄てないで食べたでしょう。苦くてまずいのでしょうが。)
雲南の文山州(現在での、三七人参の主産地)での名物料理には、「三七汽鍋鶏」というのがあります。
これは、鶏の内臓を取り出し、三七人参、生姜、葱、塩などを加えて、蒸して調理するという、薬膳料理です。
そっくりでしょう。
三七人参と鶏の組み合わせ、蒸すという調理法。
ですから、「解毒奇功方」にいう広東人参は、三七人参である可能性が高いでしょう。
“「逐毒散」は、上部の結毒を治す。”とあります。この場合の毒は、どの程度効いたのかは判りませんが、梅毒のことです。
三七人参の方が、西洋人参より効き目が優れています。それゆえ、この点からも、ここに言う広東人参は三七人参である可能性が高いでしょう。
「逐毒散」は、和田東郭先生(1744-1803)の考案になる処方とされています。処方を考案するということは、ある程度その生薬を繰り返し使っていなければありえません。
また、その考案した処方の効き目が優れていることを、ある程度の症例で確認していたはずです。
和田東郭先生(1744-1803)の生年没年からして、この「遂毒散」の処方の成立は、1700年代の後半でしょう。
三七人参は中国産ですから、日本に安定して流入している可能性が高いでしょう。仮に、西洋人参が日本に入ってきても、安定して供給は出来なかったでしょう。
この時期に、日本に継続的に入ってきていたのは、三七人参のほうが、確率が高いでしょう。

南陽先生は、『叢桂偶記(そうけいぐうき)』(寛政12年:1800年)で、“世人は、これを、韓種の人参より優れているとして、貴重なものとしている。”と記しています。
この表現は、三七人参が金にも換えがたいくらい貴重で、別名「金不換」とも呼ばれる、ということと符合しています。
西洋人参のほうが、普通の人参(朝鮮人参、イコール、韓種の人参)よりも、はるかに薬効が劣ります。三七人参は、朝鮮人参より補剤としては劣りますが、多くの面で治療効果は優れています。
この、一文から、「広東人参」が、三七人参であることが、ほぼ断言できます。
『叢桂偶記(そうけいぐうき)』には、”・・・、補気の説は無い。ただし、血に係わる薬としている。広東人参を用いているものは、そのことを知っている。病に使っているものは、誤って用いているものは少ない。”
この文から見ると、「広東人参」は、血に係わる薬であるとしています。そして、「広東人参」を用いている人は、血にかかわる薬であることを、良く知っている、としています。朝鮮人参、三七人参、西洋人参の3者のうち、最も血に係わるのは、三七人参です。
やはり、この文からも、「広東人参」が、「三七人参(田七)」であることが、分ります。
「広東人参」を薬効、用法の面から見ると「三七人参(田七)」であることは、ほぼ間違いないと思われます。

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三七人参(田七)の琉球、日本での初出

三七人参(田七)の琉球、日本での初出


結論から言いますと、
三七人参(田七)は、琉球王国(康煕58年:1719年)に、清よりの冊封使節団の随行員によって、一斤(約600g)持ち込まれました。広西三七という名称で。
これが、日本の領土に、三七人参(田七)が初めて入ってきた最も古い記録です。
琉球王府編纂の『歴代宝案』第15冊の別集上の『冠船之時唐人持来品貨物録』に記載があります。

斤(きん)について。
1斤の重さは、時代、場所によって違いがあります。
日本での1斤は600gです。
現代中国(民国17年、1928年に公布)では1斤は500gとなっています。
しかし、清代の1斤は、604.8gであって、香港、シンガポールも1斤が604.8gで使われ続けています。台湾では、1斤(1台斤)は、600gとなっています。
以上のことから、1719年に、持ち込まれた広西三七は、約600gというわずかな量です。

三七人参(田七)が、琉球王国に初めて輸入されたのは、日本本土よりも、数十年早くのことでした。しかし、かなりの確率で、日本本土に転送されたでしょう。
というのは、清の時代の歴史を記述した『清史稿』には、「所販各貨、運日本者十常八九」とあります。
要するに、琉球に、中国から入った商品の80~90%が日本に運ばれたということです。
薩摩が琉球を植民地化していたので、貿易の利は、薩摩に搾取され続けました。
明治の廃藩置県によって、やっと搾取はおわりました。

琉球王国は、長いこと仲介貿易に活路を見いだしていました。
中国は、多くの国に対して朝貢という形での貿易しか認めませんでした。
琉球は、中国には朝貢という形で、貿易をしていました。

三七人参が、いつ日本に入ってきたのだろうか?
ということを、田七について調べ始めたときから、疑問に思っていました。
おそらく、江戸時代に琉球王国に入り、それから日本本土に転送、転売されたのだろうと推定しました。

三七人参(田七)は、古くから生薬として利用されてはいましたが、広く中国本土で知られるようになったのは、明末の李時珍の著作「本草綱目」からです。
それ位の時期から、中国本土で流通するようになりました。日本の江戸時代に当たります。

中国と琉球の間で、多くの商品が出たり入ったりしました。
そのなかに、三七人参(田七)もあったのではないか、手がかりはないだろうかと調べてみました。



『明清中琉航海贸易研究』謝必震先生著、 海洋出版社という本を調べたところ、手がかりが見つかりました。
その史料の多くは、琉球王府の編纂した『歴代宝案』に依拠しています。

それによると、明と清の時代に、合計23回 冊封使が、中国より琉球に派遣されました。
琉球からは、明の時代には、時期によって2年に1回、5年に1回、十年に1回くらいの頻度で朝貢使節が派遣されていました。
清の時代は、おおむね2年に1回、朝貢使節が派遣されました。

ただし、赤嶺誠紀先生の『大航海時代の琉球』の記載によれば、明の時代には537回、清の時代には347回、合計884回、琉球より、朝貢使節が中国に行っているとのことです。
この間に、実に膨大な物資のやり取りが行われてきたことになります。

冊封使
冊封使(さくほうし)というのは、中国の皇帝が、朝貢国の王様を、その国の王として認めて任命するための使節のことです。
中国というのは、世界の中心にある中華国家という意味です。
中華思想から見ると、全世界は中華国家の皇帝のものであると考えています。
従って、全世界が中国の支配下にあることになるのですが、現実はそうでないので、中国本土を除く其の他の地区は、地元の野蛮人の王に統治を任せることにするわけです。
そこで、全世界の支配者である中国皇帝が、地元の誰かを王様に任命してやる、ということになります。
しかし、現実には、中国周辺の弱小国家しか、そのフィクションに従ってくれないので、中国の外交は、必ずゆがむとになります。




朝貢について
また、中国皇帝の徳が偉大であれば、野蛮人の酋長(王様など)が、自発的に貢物を持ってくることなると考えているわけです。
明の建国者である朱元璋 、太祖洪武帝は、建国と同時に周囲の国に使者を遣わして、入貢を促しています。
中国皇帝である朱元璋が、偉いことを認めろ、ということです。
多くの国から朝貢使節が来れば来るほど、その皇帝の徳が高いということになります。
ですから、小国でも、朝貢使節がくるのが、中国皇帝や支配層にとっては嬉しいのです。
しかし、なにもしなければ、どこの国も、中国皇帝にひれ伏して、みつぎものを持っていく国はありません。
そこで、周辺の国家が、貢物を持ってくれば、その何倍もの物を与えることによって、朝貢を促すわけです。
また、朝貢国にとっては、旅費も大変かかりますので、旅費もお土産つきで、負担してくれるわけです。

琉球は、明の呼びかけに応じて、朝貢をしました。
というよりは、琉球は、元から、機会さえあれば朝貢したがっていました。儲かりますから。
琉球は、明の時代の初期には、2年に1回、二年一貢といいますが、朝貢使節団を中国に派遣しています。その後、5年に1回、十年に1回など、時代によって違いますが、派遣しています。
清の時代には、おおむね2年に1回でした。

使節団は、那覇港を出帆して、3日から10日で、中国の福建あたりの海岸にたどり着きます。後は全部、中国政府が、北京の朝廷に行って帰ってくる旅費などのすべてを、負担してくれます。それだけではなく、使節団の大使、副使など身分の上下に応じて、給料や衣服、食品などもくれます。
北京の朝廷に行くと、礼部の役人が、朝廷での皇帝に対する、挨拶の仕方まで、伝授してくれます。
琉球からの使節は、公的な荷物から、私的な荷物まで持ち込んできています。
公的な荷物というのは、琉球の王から、中国皇帝に対する荷物、つまり貢物のことです。
私的な荷物というのは、使節団の個人が持ち込んだ荷物のことです。身分の差によって持ち込める量は違いますが、みな何かを持ち込んできています。
琉球王の貢物に対しては、中国皇帝から莫大な答礼の品をくれます。下賜するという表現を使います。中国皇帝が臣下である琉球王に与えるという意味です。
私的な荷物は、使節団の個人が、個人の金儲けのために持ち込んでいるわけです。持ってきたものを売って、その代金で、金に成りそうな商品を買って帰り、それを帰国後売りさばけば、大もうけが出来ます。
(ただし、薩摩に殖民地にされた後では、個人の利益まで、薩摩に搾り取られたでしょう。)
これが、所謂 朝貢貿易です。公的なのと、私的なのとが混じっています。
この間に、医薬品をふくむ、多くの物品が琉球に輸入されました。


さて、冊封について
冊封というのは、朝貢国の王の代替わりの時に、新しい王を任命することを言います。
元の王様が亡くなれば、その王子が王位を継ぐことになりますが、勝手に後をついで王にはなれません。なぜなら、全世界は中国皇帝の所有物、領土ですから、中国皇帝が王として任命しなければ、王ではないということになります。
そこで、代替わりの時に、新しい王を任命、つまり冊封する使節が中国皇帝より派遣されます。
ただし、代替わりの時のすべてに、冊封使が派遣されたわけではありません。
これが、冊封使節です。
冊封使の乗る船のことを、封舟とも言いますが、琉球側からは冠船とも言います。
冊封時に行われた貿易のことを、冊封貿易とも、冠船貿易とも言います。


まず、琉球から福建へ迎えの船が行きます。冊封使の乗った船の道案内をしつつ、那覇港に向かいます。
琉球から大歓迎を受けて、冊封使は中国皇帝の代理として、新しい王を琉球王に任命します。
その時に、中国皇帝から新王に多くの品が下賜されます。
国王の王としての王冠や服など、王妃の王妃としての服なども下賜されます。
また、冊封船には、使節と随行員、兵士、船員など多くの人が乗り込んでいます。
それぞれが、琉球で売るための荷物を持ち込んでいます。
薬を含む多くの種類の品が、こうして琉球に入ってきました。
冊封使節団の総人数は、その時によって違います。少ないときで、2~300人、多いときは700人以上でした。
洪武年間には500人が冊封船に乗り、各個人が約100斤の行李を持ち込み、夷人(イジン:野蛮人、この場合は琉球人。中国人は、自分ら以外はすべて野蛮人だとして蔑視しています。今も、基本的には変わっていないでしょう。)と貿易した、とあります。
このことからしても、実に多くの品物が琉球にもたらされたことになります。

清代の康煕58年(1719年)の海宝、徐葆光らが冊封に来た時に携帯した荷物に関しては、携帯者、品目、数量が、琉球王府編纂の『歴代宝案』第15冊の別集上の『冠船之時唐人持来品貨物録』に記載されているとのことです。

その中に、探していた「三七人参(田七)」についての記載を見つけました。
長班の「王爵」という人が、「広西三七を一斤」持ち込んでいました。
長班というのは、正式な使節の一員の個人的な使用人、家来という意味です。
この王爵という人は、他の長班よりも多くの荷物を携帯していますので、比較的身分の高い人の家来のようです。
わずか1斤(約600g)ですが、これが、文献上のもっとも古い記載、初出ではないかと思います。
1719年に、「三七人参(田七)」が琉球に初めて入ってきました。
日本の領土、本土ではなく植民地の琉球ではありますが、に初めて入って来ました。

ちなみに、『冠船之時唐人持来品貨物録』には、計114人の貨物携帯物のべ1054件が記載されています。
しかし、正使や主な使節団の人たちの携行荷物の記載はありません。おそらく、身分の高い使節たちの携行荷物は、調査することは失礼なので出来なかったのでしょう。また、使節や船の防衛のために軍人が乗っており、船を運航するための船員水夫たちもいるはずですが、彼らの荷物についての記載もありません。
それですから、さらに多くの品目が、琉球国にもたらされたはずです。
上記の数字から、冊封使一行の総人数は、2~300人位でしょう。

「三七人参(田七)」についての、記載はたった1行ですが、そのほかの時にも、輸入された可能性はあります。

さて、この「三七人参(田七)」のその後の運命は、想像するほかはありません。
王爵さんは、琉球に行くに当たって、金に成りそうなものを、中国で買い集めたりしたのでしょう。その時に、どこかの薬屋で、「金不換」と言う位に貴重な薬だから、買って持っていくように勧められたのでしょう。高いので大金をはたいて、わずか1斤だけ買って、持って来たのでしょう。
ところが、残念なことに、当時の琉球では「三七人参(田七)」については、まず知られていなかったでしょう。
ですから、正当な評価を受けずに、朝鮮人参の偽物くらいに思われて、安く買い叩かれたでしょう。王爵さんは、持って帰るよりはましだと、泣く泣く安く売ったのでしょう。
琉球で買い取られた、「三七人参(田七)」は、薩摩の手によって日本本土に運ばれて、偽の朝鮮人参として売られたのでしょう。
これが、数十年後でしたら、広東人参として、日本本土で正当に評価されたかも知れません。



参考までに、清代に琉球が、中国より輸入した薬材と香料の全品目を以下に紹介します。
生薬もあれば製剤もあります。また、解りにくい生薬や印刷間違いと思われるのもありますが、煩雑なので、解説は省略させていただきます。

薬材与香料
  粗薬材、白帆、砂仁、雄黄、川貝母、川附子、芦薈、冰片、姜黄、紅花、豆蔲、樟脳、洋参、黄連、硼砂、黄丹、竜脳、肉豆蔲、小割肉桂、猪苓、甘草、甘松、桂皮、良姜、使君子、麻黄、大楓子、烏薬、大腹皮、山帰来、滑石、連翹、生地、羚羊角、蘇玉竹、阿膠、白鳳丸、抱竜丸、鹿茸、琥珀、万金丹、燕窩 、麝香、神曲、大黄、三仙丹、丹朱、黄芪、川芎、川厚朴、高麗(参)、腹甲、砂薬丹、高麗須、陳李済蝋丸、藿香正気丸、烏須人参、薄荷油、万霊丹、拾痛丸、吉林真老人参、干金丹、青果散、野山人参、梅花点舌丹、回春丹、金圭(哪だ)、蒼朮、桂附理気丸、羊角黒元参、川朴硝、土茯苓、桔梗、定中正気丸、制川附子片、穿山甲、蘇州祠内陳三、范志神曲、白製膏薬、蘇州内陳、雄黄精、川黄連、貝母、丁香油、牛黄、熊胆、蟾酥、(鹿)角膠、次茸、山羊血、川蓮、云南薬珀砕、薬犀角、白附、石棗、半夏、五加皮、白粉、当帰、百部、玄参、庄黄、地黄、蓁艽、
大元枝、拘杞、正夏禾、慶応痘保和丸、白禾、大茴、楓子、痢症香蓮、解毒辟瘟丹、天竺黄、琥珀粉、梅花冰片、馬湖川蓮、道智川蓮、道智中川蓮、防已、広西三七、広東陳海、槐真正牛黄丸、大丹皮、遠志、郁金、通草、木通、柴胡、陳皮、劈砂、北五味、束仁、棟冬、万応膏、牛黄丸、寸金丹、蘇合丸、烏金丸、琥珀抱竜丸、桂花油、蘇合油、黄柏、牙散、春方、雑薬、南曲、刀明磺(こう)、香油薬、麦冬、百芷(し)、沢瀉、玉竹、淮山、甘石、五味、石斛、紫苑、車前子、苦参、丹参、亀板、益母草、山梔子、夏枯草、白薇、地骨皮、枳殻、射干、牡蛎、前胡、金銀花、禄礬(縁礬)、天冬門、白蝉皮、巴豆、呉茱萸、首烏、レイシ核、杏仁、紫蘇、蓮須、款冬花、熟地、蛇床子、白芥子、防風、金沸草、木瓜、斗別子、天麻、穂荊芥、扁豆、天南星、山茱萸、杜仲、厚朴、肉烏梅、山*、血褐、畑辛、白芍、赤芍、甘菊花、耳草、
藤黄、蘇党参、女貞子、桃仁、枇杷葉、桔核、糸瓜絡、欠実、木賊、荷帯、蛤蚧(かい)、酸棗仁、葛根、没薬、白僵蚕、木香、安息香、束香、奇楠香、官香、沈香、蘭花香、檀香、速香、丁香、粗香、銭香、広香、上檀香、香料、浸油香料、茄南香、宜香、束銭香、長寿香、金束香、好束香、上好安息香、帳香、楠木、白檀、胡椒


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三七人参(田七)の日本で初出   その2

三七人参(田七)の日本で初出   その2



『叢桂偶記(そうけいぐうき)』における「三七人参(田七)」の記述

原南陽先生の『叢桂偶記(そうけいぐうき)』より、広東人参の項を、現代文に直して紹介します。
なお、原文は、著作権が切れていますが、訳文の著作権は、私 鈴木 覚に帰属します。引用は、自由にしてかまいません。ただし、捻じ曲げないでという条件でです。

広東人参についての一部を引用しようかな、とも思ったのですが、全文を紹介した方がよさそうなので、全文を現代語訳しました。
文中に、銭(せん)とか分(ぶ)とかが出てきますが。重さの単位です。現代中国でメートル法を採用してからは、一銭は5gと定められています。
ところが、薬の単位としては、一銭は3gのようです。
『中薬臨床手冊』(上海人民出版社)には、少し以前の一銭は3.125gであったが、この本では、一銭を3g、一分を0.3gとするとしてあります。
また、時代、地域によって一銭の重さが違いますので、文中の一銭は、大体3g(五分は1.5g)前後とすればよいでしょう。
なお、日本での一銭は3.75gです。五円玉の重さです。

なお、現在「広東人参」は「西洋人参」を指すことか多いようです。
「西洋人参」は、アメリカに産するウコギ科の植物で、朝鮮人参の仲間です。
以下の文中に「アメリカソム」と出てきますが、「西洋人参」と混同したのかも知れません。

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広東人参   『叢桂偶記(そうけいぐうき)』より
世間には、「広東人参」と称するものがある。往年、役所はその売買を禁じていた。というのは、それは人参の偽物と思われていたからである。最近、ようやくその禁制が解かれたので、手に入れられるようになった。世人は、これを、韓種の人参より優れているとして、貴重なものとしている。
ある人は、「三七人参(田七)」を沙参(シャジン)であろうといい、ある人は零余子(ムカゴ)人参であろうと言っている。
紛紛として、はっきりとしていない。
しかし、実際にそれを使用したものは、それが人参の類ではないことがわかる。
しかし、その味は、大体人参に似ており、人参として疑わずに用いている。

少し前に、長崎の人が、「朝鮮人参、広東人参、韓種人参、竹節人参」の4種を、オランダの外科医の「ヘルマニス・レツテキ」に見せて質問した。
すると、「広東人参」以外は知らないとのことであった。「広東人参」のことを、「アメリカソム」と答えた。
寛政丙辰年(1796年)、オランダ人が、「広東人参」を「アメリカソム」という名称で若干斤、持ち込んだ。
これで、この物産(広東人参)が、アメリカ産であることがわかった。

ところが、最近こんなことが判った。
最近、オランダ語の通訳の楢林達夫が水戸に来た。それで、私は彼に会って、この稿を示した。
楢林は、「ヨーロッパには、人参は産しません。ソムは参(人参)のオランダ語です。参の音はサンですから、ソムと誤って聞こえたのでしょう。」との答えであった。

以前、広東人の呂大圭という者が、長崎に来て、その地は人参を産しない、と上書したことがある。
『大明一統誌』を見ると、広東は昔の百粤(粤の音はエツで、越とおなじ。広東の古名)の地である。そして、その地には人参を産しないとあった。
『広東新語』にも、越(エツ)には人参を産しない、とある。

蘇長公は、かって羅浮(広東の地名)に人参を植えてみたことがあった。
そして、このような詩を作った。
「上党天下脊 遼東真井底 霊苗此孕育 肩股或具体 移根到羅浮 越水灌清泚 地殊風雨隔 真味終祖禰」
(注:意訳すると、こんな感じでしょう。「朝鮮ニンジンは、遼東(今の中国東北部、旧満州)に生育する。苗を広東の羅浮に移植したが、水や風土の違いからか、育たなかった。」)

これから見ると、広東に人参が産しないことが知れるであろう。

最近読んだ、徐慶登が序文を書いた『医便』には、「金不換三七」について記載されてれている。
「金不換三七」は、粤西(広西)の惟右、江南などの州(これらの地名は不明)より産出する。蛮夷の最たる地である。粤西(広西)は広東の一部である。すなわち、いわゆる広東人参は、「金不換三七」である。
このものは、昔から珍しい奇薬である。
故に、世に広東人参を用いる者は、偶々、株を守っているようなものである。

本草綱目の三七についての解釈は、まとまっていない。
李時珍は、『本草綱目』で、「三七」について、
近頃、伝えられている一種の草は、すなわち今言うところの「三七」である。「金不換」と同じではない、と述べている。
その主治については、『綱目』の記載、『瀕湖集簡方』、『医便』もみな同じである。また、孫光裕の『血証全集』にも記載されている。共に、補気の説は無い。ただし、血に係わる薬としている。
広東人参を用いているものは、そのことを知っている。
病に使っているものは、誤って用いているものは少ない。

集簡方にも本草綱目にも、広東人参について記載されているが、今は『医便』と『血証全集』に記載されているのを記す。

『医便』には、以下のように記載されている。
金不換三七の経験的に優れた処方を記す。
三七は、粤西(エツセイ:広西のこと)の惟右江南などの州より産出する。蛮夷の最たる地区である。
険しい山や谷の間に産する。真に、人参の味に似ている。茎の上には、7枚の葉があり、下には、3本の根がある。それで、三七と名づけられた。金にもたとえられるほどなので、またの名を「金不換」ともいう。またの別名を「血見愁」ともいう。専ら、血(ケツ)の経絡に帰する病気を治す。これほど血(ケツ)に係わるものに効く薬は無い。
使い方を以下に記す。
一、刀傷、矢傷、跌打損傷の出血して止まらないのを治す。少量を自分で噛み潰して、患部を覆えばすぐに治癒する。
一、婦人の赤白帯下には、一銭を服用する。研いで粉にして、温ためた酒で服用する。
一、吐血を治すには一銭を服用する。まず噛み潰して、茅花煎湯または米湯で服用する。
一、男女の熱病で口歯が開かないのを治す。生姜で歯をこすって、姜湯で三銭を服用する。
一、婦人の産後の敗血で痛むのを治す。一銭または五分を研いで粉にし、艾葉煎湯、老酒で服用する。自分で噛み潰して飲みこんでも良い。
一、男女の、打たれて青く腫れて、消えないのを治す。一銭を噛み潰して細かくし、患部に塗れば、たちまちに消える。
一、男女の、眼を害すること甚だしく、眼が開かないのを治す。一銭を噛み潰して、眼の周囲に塗れば、一晩ですぐに治癒する。(原注:『医鑑』には、水に溶かしてまぶたに塗る、とある。)
一、男女の、紅白痢疾を治す。一銭を用いる。研いで粉にして、木香黄連煎湯または米のとぎ汁で服用する。
一、蛇によるかまれ傷、虎による傷を治す。一銭を磨いて粉にして、酒で服用する。残りを噛み潰して患部に塗れば、たちどころに効く。                  

一、男性が、毒虫に刺されたのを治す。まず、一銭を噛み潰して、毒に当てられた所に当てれば、神の様に効く。
一、男女の、咽喉が腫れて痛むのには、三七の一銭を粉として、塩酒で服用する。
一、男女の、心臓が疼痛することが長いのを治す。二銭または一銭を粉として、温めた酒で服用する。又は、自分で噛み潰して、酒で服用するのも良い。
一、小児の痘疹を治す。一銭を、沸騰させたお湯に蜜を溶かしたもので、服用する。
一、男女の血淋を治す。一銭を燈草姜湯で服用する。
一、婦人の血山崩(生理の出血の特に甚だしいこと)を治す。研いで粉にしたのを一銭、淡白酒、または米湯で服用する。一、二回服用すれば、すぐに治癒する。  
一、腸よりの下血には、四物湯に三七を五分加えて、服用すると治る。
一、杖に打たれた傷または刀傷を治す。三七を、傷の大小に応じた量を噛み潰して、患部を覆えば、すぐに治癒する。杖に打たれる前に、先に一銭を服用しておけばよい。そうすれば、打撃が軽くなる。杖に打たれた後、繰り返し服用すると良い。
一、男女の原因不明の腫毒、癰疽などの瘡を治す。痛みが止まらない時には、一,二銭を研いで細かい粉にして患部に塗れば、痛みはすぐに止まる。
或いは、化膿したばかり、化膿しそうでしていない場合には、三七を米の酢に溶いて患部に塗れば、すぐに散じる。

『血症全集』には、こうある。
三七は、すなわち金不換である。
吐血、鼻血、下血、血崩を止める。
気味は甘く、わずかに苦く、温である。
主治は止血、散血、血運、血痛である。すなわち、腸明厥陰の血分の薬である。それ故、能く一切の血病を治す。
吐血、鼻血には、山漆(サンシツ:これも三七の別名)一銭を、自分で噛み潰して、そのまま米湯で服用する。また、三七を五分、八物湯に加えて服用する。
下血、血崩には、研いで粉にして、白酒に一、二銭加える。または、四物湯に加えて、服用する。
血痢には、米のとぎ汁に混ぜて服用する。


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三七人参(田七)の日本で初出   その1

三七人参(田七)の日本で初出   その1

結論から言いますと、
現在は、日本の一部となっている琉球には、康煕58年(1719年)に、王爵という冊封使の随行員が一斤、持ち込みました。これが、最も古い記録です。
日本本土には、寛政丙辰年(1796年)、オランダ人が長崎に持ち込みました。
これが、日本国での最も古い記録です。

三七人参(田七)は、江戸時代に日本でも売買されていました。
18世紀後半には、日本に「広東人参」という名称で輸入されていました。しかも、かなり流行していました。
日本に入ってきたのが判明しているのは寛政丙辰年(1796年)、オランダ人が長崎に持ち込みました。これは、琉球王国(康煕58年:1719年)に入ったのよりも、かなり遅れています。
そうではありますが、多くの人が、思っていたよりは、三七人参(田七)が日本に導入されたのは早いということになります。


江戸時代に「三七人参(田七)」は、すでに日本に入って来ていた

三七人参が、いつ日本に入ってきたのだろうか?
三七人参(田七)が初めて日本に入ってきたのは、いつだろうか?
ということを、田七について調べ始めたときから、疑問に思っていました。
田七については、多くの文は、日本には、ここ2,30年くらい前から入ってきたとしています。
しかし、田七について調べてみると、もっと前から、つまり江戸時代、または琉球王国の時代に、日本に入ってきたのでは無いのか、という感じがしてていました。
三七人参(田七)が広く中国本土で知られるようになったのは、明末の李時珍の著作「本草綱目」からです。
日本人は、昔から、医学書や薬材を好んで中国から輸入していました。
このことは、明代の日本を研究した書である「日本考」には、日本人が欲しがるものを「倭好」として、医学書が挙げられていることからも わかります。
『本草綱目』も、出版されてから、すぐに日本に輸入されたと思われます。いつかは、断定できませんが。しかし、徳川家康が手に入れて、手元においたと言うことが知られています。その『本草綱目』は、神君御前本という名で呼ばれていました。
江戸時代は鎖国の時代で、外国とは通行が制限されていましたが、中国からの書籍、物資は、長崎を通じて、輸入されていました。中国人も長崎に来ていました。しかも、オランダ人より多くの中国人が、取引のために来ていました。
中国の物資は、中国人もオランダ人も持ち込んでいました。
輸入されたもののうちで、薬材は多くの部分を占めていました。
何が、輸入されていたかはわかりませんが、そのうちには三七人参(田七)もあったのではないかと思われます。
しかし、先日、ある書籍(叢桂偶記)を読んでいて、偶然に三七人参(田七)の日本で初出の文章を見つけました。

原南陽先生の『叢桂偶記(そうけいぐうき)』に、「三七人参(さんしちにんじん:田七)」が「広東人参(カントンニンジン)」として、記載されていました。
これを見ると、三七について、原南陽先生は、実に的確に理解していたことがわかります。
実に、驚くべきことです。
現在ですら、「三七人参(田七)」について、正しく認識されていないのですから。
『叢桂偶記(そうけいぐうき)』の後書きには、寛政十二年(1800年)とありますので、
広東にんじんについては、1700年代の末に日本国内で流通するようになったことが判ります。

さて、三七のことを、日本では、何故か「田七」と呼ぶことが多いようです。
田七とは、広西省の田州府の三七という意味です。昔は、田州府が「三七人参」の集散地だったため、三七が田七と呼ばれることもあります。
その、田七という名称が、日本では定着したということなのでしょう。
現在では、雲南省の文山州が「三七人参(田七)」の本場と自称していますが、歴史的には、広西省のほうが本場です。原南陽先生の以下の文からも、窺えます。

現在、日本では、三七(さんしち)は、多くの場合「田七(でんしち)」という名称で、健康食品として利用されています。
以下の記述に見られるように、三七は、優れた効果があるのですが、食品なので、効能効果を表示してあるものはありません。
私自身は、三七が好きで、何種類か取り扱っています。
私も、便宜上、それを「田七(でんしち)」と呼んではいますが、あまり好きな名称ではありません。どうも、田舎臭い名前なので、好きではありません。三七(さんしち)の方が、音も、字面も良い感じがします。
三七は、うまく利用すれば、さまざまな効果が早く発揮します。
昔は、主に外用に用いられていましたが、現代中国では、肝臓病、心臓病など広範囲に効果が認められて、治療に用いられています。

                                        薬剤師  鈴木 覚

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