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1日で2例の妊娠報告

1日で2例の妊娠報告

2011.9.24は、近来にない、実に良い日となりました。
最近は、暗いニュースばかりですが、ひさしぶりの明るいニュースでした。
(そのご夫婦、親戚、知人それと私ども昭和薬局のスタッフ全員にとってですが。)

1日に二組の方から、妊娠したとの報告をうけました。
最初の方は、大きなお腹をしていて、妊娠8ヶ月とのことでした。
しばらくぶりでしたが、つわりがひどくて外出もままならないとのことで、ようやく来ることが出来たとのことです。
漢方薬と、タンポポ茶を飲んでいただいています。
最後に見えた時の体温表は、今までは、ガタガタだった基礎体温表が、高温部と低温部がはっきりと分かれていました。
その上、高温部がやや続いている感じでした。
ひょっとしたら、妊娠かも知れないとは思っていたのですが、本当に妊娠していました。
このご夫婦は、当店の漢方薬だけで見事に妊娠しました。
使用したのは、剤盛堂(ホノミ漢方)の「エッキ」という、漢方薬です。
今年中に出産予定とのことで、私どもも楽しみにしています。

二組目の方は、   
入ってくるなり、「妊娠しました。」とのことでした。
それを聞いて、エーっと驚き、嬉しくなりました。
    1日で、二組の妊娠報告!!
ここ数年、不妊、子宝の相談に力を入れて来ましたが、1日に二組の妊娠報告は初めてでした。
こちらの方は、病院で不妊治療を受けていましたが、何回か人工授精を受けましたが、今まではうまくいきませんでした。
それが、今回は、妊娠して3ヶ月とのことでした。
病院の治療ですと、技術的なこと(高度不妊治療)は、大変進歩してきています。
しかし、母体や卵子の質を良くする事は出来ていません。
こういうときには、漢方の出番です。
又、精子の質をよくすること、運動量を増やすことは、やはり漢方の得意分野です。
奥様の方には、漢方薬とタンポポ茶、ご主人には、別の漢方薬を飲んでいただいています。
こちらの奥様にも、偶然ですが、やはり同じ漢方薬の「エッキ」を飲んでいただいています。
こちらの方は、病院の不妊治療と併せて、妊娠することが出来ました。

奥様の年齢ですが、前者は30過ぎで、後者は30代後半です。

この二例(女性不妊)には、全く同じ漢方薬、タンポポ茶を用いていますが、誰に対しても同じものを使うわけではありません。
胃腸が弱ければ、胃腸をよくする漢方薬を用いたりします。
女性向けの漢方薬と、胃腸を良くする漢方薬で妊娠したこともあります。
又、低温期、高温期に応じて、漢方薬を使い分ける周期療法を、お勧めする場合もあります。(イスクラ漢方の「婦宝当帰膏」などを用います。)
一人一人の状況をうかがいながら、漢方薬を選んでいます。

また、かならずアドバイスすることがあります。
妊娠を希望するなら、体を冷やさないようにして下さい、ということです。
絶対に(出来ればではなく)体を冷やさないことです。冷たいものを食べたり、飲んだりするのを控えてください。
朝ごはんは、パンではなくご飯を。


子宝、不妊症(女性不妊、男性不妊)の相談について時間によっては、ゆっくり相談できない場合があります。
相談を希望される方は、なるべくご予約ください。(048-473-7830)

朝霞、志木、新座、和光で漢方薬局 36年
               昭和薬局    薬剤師 鈴木 覚
埼玉県朝霞市朝志ヶ丘1-2-6-106 
               TEL 048-473-7830  FAX 048-473-7332  

昭和薬局のホームページは、サイタマカンポウ ドット コム
          http://www.saitamakanpo.com/

三七人参(田七)の日本で初出   その4

三七人参(田七)の日本で初出   その4

広東人参、三七人参、西洋人参 (2)

西洋人参の中国流入

南陽先生の言う、「広東人参」が「西洋人参」である可能性は、ゼロではありません。
そこで、「西洋人参」について、述べてみます。

「西洋人参(西洋参)」という名がついてはいますが、産地からすると「北アメリカ人参」といった方が正確でしょうね。

日本では、「西洋人参」については、こう伝わっていました。
“アメリカの新たに獲得した領土である、カリフォルニア州で1848年に金が発見され、ゴールドラッシュが起こった。その時に中国より多くの移民労働者が渡り、朝鮮人参に似たもの、西洋人参を見つけた。これがきっかけとなり、西洋人参が中国に入ってきた。”
私は、西洋人参に対しては、調べたことがなかったので、そんなものであろうと思っていました。
しかし、それは誤りであることが、判りました。


馬暁北先生編著の「西洋人参」によれば、もっと前から、中国に入って来ていました。

先にも、述べましたが、
康熙帝が、長白山への一般人の立ち入りを禁じたことにより、朝鮮人参の供給が不足しました。

1718年、フランスの毛皮商が、試しに西洋人参を中国に輸出しました。
ワシントン(初代、合衆国大統領)の日記には、人参を堀っている人に遭遇したことが書かれているそうです。
1776年7月4日、アメリカ合衆国の独立宣言がなされました。
1788年、フィラデルフィアの文献には、Daniel Boon(ダニエル・ブーン)という著名な探検家が、15トンもの西洋人参を売ったとの記載があるそうです。
ただし、北アメリカから直接、中国に送られたのではなく、ヨーロッパ経由です。西洋人参は、イギリスやフランスを通じて、中国に輸出されました。
それで、中国では西洋人参の原産地をフランスであると、誤解したようです。
西洋人参についての最も古い記載は、「本草綱目拾遺」(1765年)と「本草従新」(1757年)です。それには、西洋人参はフランスの原産であるとしています。
「本草従新」には、“西洋人参は、形は遼東の人参に似ているが、煎じても香りが良くない。その気は、甚だ薄い。市中の偽人参はみなこの種である。見分けるのが難しい。”とあります。
(この文章からも、「広東人参」は、西洋人参ではない可能性が高いでしょう。)
この時代には、「西洋人参」は「西洋参」という名が一般的なようです。
1784年2月、西洋人参を242箱、約30トンを積んだ「中国女皇」号という船が、ニューヨークから出帆し、8月30日に中国の広州(広東)に到着した。
これが、アメリカと中国との直接貿易の始まりでした。
その後、毎年約70トンの「西洋人参(西洋参)」が、アメリカのニューイングランドより、中国に送られました。
更にその後、アメリカの「旧金山」(サンフランシスコ市)が西洋人参の集散地となり、おもに広州(広東)に送られました。
西洋人参の別名の一つが、広東人参であるのは、このことによるのでしょう。

以上のことから、1700年代の後半には、西洋人参は中国に相当量入ってきています。
それが、日本に更に転売された可能性は、当然あります。
しかし、この時代の文献の「本草綱目拾遺」、「本草従新」には、「西洋人参(西洋参)」の別名が「広東人参」であるとは、書かれていません。

原南陽先生の「叢桂偶記(そうけいぐうき)」には、
“少し前に、長崎の人が、「朝鮮人参、広東人参、韓種人参、竹節人参」の4種を、オランダの外科医の「ヘルマニス・レツテキ」に見せて質問した。
すると、「広東人参」以外は知らないとのことであった。「広東人参」のことを、「アメリカソム」と答えた。”
この文章を、そのまま受け止めれば、「広東人参」は「西洋人参:アメリカソム」であることになります。しかし、オランダ人は、もともと朝鮮人参などは見たことがなく、「アメリカソム」しか知らなかった、と文章からは読み取れます。その「アメリカソム」ですら、西洋人は薬として使いませんので、よく知ってはいなかったでしょう。そこで、その「アメリカソム」に似た感じの「広東人参」を「アメリカソム」と答えた可能性があります。
また“寛政丙辰年(1796年)、オランダ人が、「広東人参」を「アメリカソム」という名称で若干斤、持ち込んだ。
これで、この物産(広東人参)が、アメリカ産であることがわかった。”
この文からは、「広東人参」が、「アメリカソム:西洋人参」であることが読み取れます。
人参の「参」の日本語の音は、ジンまたはサンですが、広東語ではサム、ツァム、北京語ではシェン、ツァンです、
「アメリカソム」のソムは、広東語のサムに近く、ソムと表現してもおかしくはありません。

同じ「叢桂偶記(そうけいぐうき)」の文でも、こちらの方は、「広東人参」が「西洋人参(西洋参)」である可能性が高いことを示しています。
これは、オランダ人がそう言っているのであって、原南陽先生らが、眼で確かめてはいません。
「朝鮮人参」ですら、「東洋人参(東洋参)」の別名があるのですから、「三七人参」が、どのような別名があっても、不思議ではありません。
「東洋人参(東洋参)」の「東洋」は、日本を指しますので、「東洋人参(東洋参)」は「日本人参(日本参)」ということです。

結論
『叢桂偶記(そうけいぐうき)』に云う「広東人参」は、「三七人参(田七)」である可能性もあれば、「西洋人参(西洋参)」である可能性もあります。

しかしながら、実際に使用したことのある原南陽先生らの薬効に対する解釈、使用経験からして、ここで言う「広東人参」は「三七人参(田七)」であることは、ほぼ間違いないと思います。


朝霞の漢方     昭和薬局    薬剤師 鈴木 覚
埼玉県朝霞市朝志ヶ丘1-2-6-106
TEL 048-473-7830  FAX 048-473-7332

三七人参(田七)の日本で初出   その3

三七人参(田七)の日本で初出   その3


広東人参、三七人参、西洋人参 (1) 

以前、江戸時代に三七人参が広東人参の名称で日本に入っていたと書きましたが、
幾つかの疑問点があります。
原南陽先生の言う、広東人参は,本当に三七人参であろうか?
それとも、別なもの、つまり西洋人参ではなかろうか?と言う疑問が上がります。
西洋人参は、朝鮮人参、三七人参と同じウコギ科の薬用植物で、北アメリカの、アメリカ合衆国の北部とカナダが産地です。
現在でいう広東人参は、西洋人参の別名とされています。このことが、事態をややこしくしています。
生薬の名称は、しばしば混乱しています。
一つの生薬に対して、複数の名称があるのが普通です。おまけに、地方名、民族名まであって、種種雑多です。
また、同じ名称で、いくつかの種の生薬を指すことが、しばしばあります。
一物多名、多物一名ということが、かなりあります。
これが、特に、昔の生薬の同定を難しくしています。
三七人参も、その通りです。


私の意見を、結論から言いますと、
原南陽先生の言う「広東人参」は、「三七人参(田七)」である可能性が高いと思います。

以下に、考察してみましょう。

三七人参の日本流入
琉球に三七人参が入ったことが明らかなのは、1719年です。それが、日本に転送された確率は、90%くらいです。文献があるのはこれだけであっても、もっと以前から、琉球王国から日本に入っている可能性は、当然あるでしょう。又、中国人が長崎に持ち込んでいる可能性もあります。大体、利にさとい中国商人が持ち込まないはずがありません。ただ、記録がないだけでしょう。


西洋人参の産出国であるアメリカ合衆国の成立は、1776年です。しかも、当時の独立の十三州は、大西洋側にしか領土がありませんでした。
そのアメリカの独立以前に、日本に西洋人参が来たのであろうか?と言うことも、疑問です。
原南陽先生の、“近頃、「広東人参」というものが、”という表現から見ると、「広東人参」がある程度の量が日本に入ったのは、1700年代の後半でしょう。
そんな早い時代(1700年代後半)に、つまり合衆国独立前後に、西洋人参が日本に入ってきたのだろうか、ということも疑問です。

「西洋人参」馬暁北先生編著、天津科学出版社、2004年、によると、
清時代の康熙(こうき)帝が1690年位に、長白山(白頭山:ペクトサン)への、立ち入りを禁じた。それによって、人参の供給が不足した。そこで、朝鮮より高麗参、日本より東洋参が中国に輸入された。
おそらく、こういう状況の下で、三七人参の使用が広がったのではないかと思われます。
また、西洋人参が中国に輸入される原因の一つでもあったのでしょう。
「本草綱目拾遺}を以前 読んだ時に、不思議に思ったことがあります。本草綱目拾遺には、人参と高麗参(朝鮮産の人参)のほかに、東洋参(日本産の人参)が記載されています。
(「拾遺」には、「三七人参(田七)」は、「昭参」という名称で記載されています。雲南省の昭通府が集散地の一つだったことから、こういう別名もありました。)
はて、鎖国中の江戸時代の日本から、中国に日本産の人参がなぜ渡ったのだろうか?と、不思議に思いました。江戸時代には、やっと日本で人参が栽培できるようになったばかりで、そんなに生産量がなかったでしょう。或いは、相当量生産出来たのかも知れませんが。
康熙帝の命令で中国での産出が減った影響で、日本産の東洋参が中国に輸出された原因であったことが、西洋人参について調べて、理由がわかりました。

原南陽先生(1753-1820)の「解毒奇功方」(天保9年3月:1838年) には、各種の処方が記載されていますが、「広東人参」をふくむ処方が、一つだけ記載されています。
和田東郭先生(1744-1803) の考案になる処方として、「逐毒散」という処方が記載されています。
これは、三七人参の雲南での使い方とよく似ています。
「逐毒散」は、このような、変わった調整法をします。
香附子(コウブシ)1斤、広東人参1両を、内臓を除去した鶏の腹に詰め込んで、縄で縛ります。それを蒸して、鶏の肉汁が香附子にしみ込んだのを取り出して、日にあてて乾燥させ、粉にして服用する。(残りの鶏は、棄てないで食べたでしょう。苦くてまずいのでしょうが。)
雲南の文山州(現在での、三七人参の主産地)での名物料理には、「三七汽鍋鶏」というのがあります。
これは、鶏の内臓を取り出し、三七人参、生姜、葱、塩などを加えて、蒸して調理するという、薬膳料理です。
そっくりでしょう。
三七人参と鶏の組み合わせ、蒸すという調理法。
ですから、「解毒奇功方」にいう広東人参は、三七人参である可能性が高いでしょう。
“「逐毒散」は、上部の結毒を治す。”とあります。この場合の毒は、どの程度効いたのかは判りませんが、梅毒のことです。
三七人参の方が、西洋人参より効き目が優れています。それゆえ、この点からも、ここに言う広東人参は三七人参である可能性が高いでしょう。
「逐毒散」は、和田東郭先生(1744-1803)の考案になる処方とされています。処方を考案するということは、ある程度その生薬を繰り返し使っていなければありえません。
また、その考案した処方の効き目が優れていることを、ある程度の症例で確認していたはずです。
和田東郭先生(1744-1803)の生年没年からして、この「遂毒散」の処方の成立は、1700年代の後半でしょう。
三七人参は中国産ですから、日本に安定して流入している可能性が高いでしょう。仮に、西洋人参が日本に入ってきても、安定して供給は出来なかったでしょう。
この時期に、日本に継続的に入ってきていたのは、三七人参のほうが、確率が高いでしょう。

南陽先生は、『叢桂偶記(そうけいぐうき)』(寛政12年:1800年)で、“世人は、これを、韓種の人参より優れているとして、貴重なものとしている。”と記しています。
この表現は、三七人参が金にも換えがたいくらい貴重で、別名「金不換」とも呼ばれる、ということと符合しています。
西洋人参のほうが、普通の人参(朝鮮人参、イコール、韓種の人参)よりも、はるかに薬効が劣ります。三七人参は、朝鮮人参より補剤としては劣りますが、多くの面で治療効果は優れています。
この、一文から、「広東人参」が、三七人参であることが、ほぼ断言できます。
『叢桂偶記(そうけいぐうき)』には、”・・・、補気の説は無い。ただし、血に係わる薬としている。広東人参を用いているものは、そのことを知っている。病に使っているものは、誤って用いているものは少ない。”
この文から見ると、「広東人参」は、血に係わる薬であるとしています。そして、「広東人参」を用いている人は、血にかかわる薬であることを、良く知っている、としています。朝鮮人参、三七人参、西洋人参の3者のうち、最も血に係わるのは、三七人参です。
やはり、この文からも、「広東人参」が、「三七人参(田七)」であることが、分ります。
「広東人参」を薬効、用法の面から見ると「三七人参(田七)」であることは、ほぼ間違いないと思われます。

朝霞の漢方  昭和薬局   薬剤師 鈴木 覚
埼玉県朝霞市朝志ヶ丘1-2-6-106
TEL 048-473-7830  FAX 048-473-7332

三軒茶屋  虎は死んでも皮を残し、大学は移転しても名を残す

虎は死んでも皮を残し、大学は移転しても名を残す   三軒茶屋、明治薬科大学

先日、久しぶりに世田谷の三軒茶屋に行きました。
用事が終わって、ぶらぶらしていると、バス停が見えました。
その通りは、「明薬通り」という名です。
「明治薬科大学」という名の停留所でした。
バス停名の下には、次は、「日大生物資源科学部前」とあります。

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実は、「明治薬科大学」も「日本大学生物資源科学部」も、かなり前に移転して、今はありません。
以前から、この通りが「明薬通り」という名であるのは知っていたのですが、バス停まであるとは、今まで知りませんでした。
そういえば、東急の東横線の「都立大学」も、ずーっと前に、大学は移転してしまって、名前だけ残っていますね。

「虎は死んでも皮を残す。」という言葉がありますが、「大学は、移転しても、名を残す。」ですね。
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私は、「明治薬科大学」ではなく、この沿線の先の世田谷区弦巻にあった「昭和薬科大学」の卒業です。サザエさんで有名な桜新町に隣接しています。
「昭和薬科大学」の方は、残念ながら、地名などには残っていません
その通りをさらに進んで玉川通りに向かって行ったら、道路方向の表示に「弦巻(つるまき)」とあったので、懐かしいと思い、写真を撮りました。
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薬剤師  鈴木 覚
埼玉県朝霞市朝志ヶ丘1-2-6-106    朝霞の漢方薬局   昭和薬局 
  (武蔵野線北朝霞駅、東武東上線朝霞台駅より8分。 東武東上線志木駅より7分)
        TEL 048-473-7830  FAX 048-473-7332  
        休業日: 日曜・祭日

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